推しメンのBDイベントを見る前に知っときたかったこと
こんにちは
べんじー(@bnz_hnp)です
小林萌花ちゃんBDイベント2020に参加しました。
ピアノ曲について調べたことをまとめようと思います。
曲に対する情報の中には出典等怪しいものもある。
素人知識や解釈を間違っている箇所もあるかと思われる。
気がついた方はぜひ教えていただきたいです。
セトリ
ピアノ
① ショパン ワルツ 第9番Op.69-1
歌唱
1部
①愛して 愛して 後一分
②「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?
③Do it! Now
④悪いヒト
⑤ぁまのじゃく
2部
①Fantasyが始まる
②「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?
③Do it! Now
④悪いヒト
⑤ぁまのじゃく
ピアノ曲
① ショパン ワルツ 第9番Op.69-1
登場してすぐに披露した曲。
何も言わずにステージに上がっていきなりピアノを弾くことが憧れだったそう。
別名『告別』。
このサブタイトルは彼自身が命名したものではないらしい。
いわゆる俗称と呼ばれるものだろうか。
この曲を贈り物として婚約者の前で演奏したが、破局に終わったそうである。
そういうわけで『告別』という異名で知られることに。
向こうの親が認めてくれなかったとか。
生涯で唯一結婚を考えた女性で彼にとって理想の女性であったらしい。
年齢は10個下。
いいね。
その後、 この曲をちょっと直して弟子の女性2人にプレゼントしたそう。
なかなか人間味のあるエピソードだ。
2019年の個別握手会イベント「BEYOOOOONDSの部屋」の曲録にもショパンの『別れの曲』があった気がする。
こちらの曲は正式には練習曲Op.10-3という。
お家でもBEYOOOOONDS学校で小林先生が説明していたが、芸術作品としての意味も大きい練習曲。
練習の目的は音量のバランスを考えて弾くことだそう。
こちらの曲はワルツ 第9番Op.69-1『告別』とは違い、日本だけでの呼び名らしい。
『別れの曲(邦題)』というドイツ映画でテーマ曲として用いられていたことによる。
誰かとの別れではなく、この曲には彼の祖国ポーランドに対する強い思いが反映されている。
1839年にワルシャワ公国(現在のポーランド)に生まれ39歳で亡くなった。
彼の家族は音楽家一家だったそう。
幼い頃からピアノ作曲家に師事し、ピアノを本格的に学ぶ。
初めて作曲したのが『ポロネーズ第11番ト短調』であり、なんと7,8歳の頃に書いた曲だそう。
天才かよ。
その後、今で言う音大のような機関で教育を受け、首席で卒業した。
天才すぎる。
天才的な音楽センスと恵まれた環境等により育った豊かな感受性が独創的な作品を生み出した。
当時のポーランドはロシア帝国の支配下にあったため、反乱のために彼の友人も蜂起に加わったが失敗に終わり、ショパンは心を痛める。
『革命のエチュード』『スケルツォ第1版』にはそういった祖国を蹂躙する列強に対する怒りや激しい感情が表れている部分がある。
②ショパン マズルカ 第43番 Op.67-2
マズルカはポロネーズと並んで有名なポーランドの民族舞踊の1つである。
聞けばわかる特徴的なリズム。
マズルカという形式?の作品を多く作曲したが、この作品は1849年、没年(39歳)に完成させた作品。
他の作品にも通底しているが、若くして祖国を離れたことによる強い思いや憂いがある。
③ブラームス ピアノソナタ第1番 Op.1 第三楽章
ブラームスの若い頃の作品。
ショパン、ベートーヴェン、シューマンら先輩たちの作品に強い影響を受けていることがわかる(人にはわかるそう)。
"第1番 Op.1"からもわかる通り、ブラームスが初めて発表した作品。
彼が20歳のときだ。
ほのぴもはたち、何か意味があるのだろう。
ソナタ形式というのはほのぴのブログにも書かれていたように、
提示部
どのような曲であるのか
展開部
曲の展開
再現部
提示部と同じメロディ
終始部
盛り上がる
の4つの部分からなる絶対音楽。
作品番号1番、ソナタ、カチッと決まった音楽の構成に民俗的音楽を取り入れた。
これからの作品においてもこの傾向が見られる。
これが若い頃のブラームスの特徴でもあるらしい。
ブラームスも天才エピソードがあり、4才にして聴いた曲を書き留めようとしていたらしい。
どういう?
彼の家は代々ずっと身分の低い田舎町の商人の家系。
しかしヨハネス・ブラームスの父親、ヨハン・ヤーコプが突然演奏家になると宣言。
家族は大反対。
なんとか音楽家としての地位を獲得したが、成功したとは言えず。
貧困の家庭に生まれながらもヨハネスは十分な教育を受けた。
音楽的な教育も受け、彼は10歳そこそこで父親の行う演奏会でも活躍する。
彼は家計を助けようと10代前半でピアノ演奏のアルバイトを行ったり。
10代後半で自分を見つめ直し、民謡にハマったり。
天才だからちっちゃい頃から曲書きまくりなのに、自己批判が強かったせいで150曲以上が失われてしまったそう。
天才エピソードすぎる。
20歳くらいになって、気の合うヴァイオリニストとともに旅に出たりしたそう。
この辺で最愛の人物クララ・シューマンに出会う。
ローベルト・シューマン、シューマンとして音楽室にかけられているあの有名な音楽家の妻である。
ローベルトと出会い、絶賛されたことで彼は一躍有名になり、音楽の巨匠への道を歩むことになる。
ピアノソナタ第1番 Op.1 、この曲をローベルトの前で披露。
ローベルトは大絶賛。すぐに妻のクララにも呼んで聞かせた。
彼女もまたピアノ演奏家であった。
2人の偉大な音楽家が認めた曲。
ぼくもわかる~って言いたい。
④ショパン エチュード 第5番 Op.10-5
『黒鍵』として知られる超有名な曲。
ほのぴ本人も他の3曲はなかなか聞いたことないかもしれないけど、この曲は聞いたことあるかもしれないって言ってた。
ぼくでも聞いたことあるやつでよかった
右手の黒鍵の3連符の奏法の練習曲。
当時は黒鍵を親指で打鍵することが禁止されていたらしい。
しかし、楽曲の複雑化やより高度な演奏技術の獲得のために親指を使う奏法をこの曲の中で認めた。
わけがわからない。
彼女がこの曲を演奏したことに対し、「黒鍵のために書かれたことを知らない者にとっては、およそつまらないもの」と評したそう。
ほのぴもはたちになったし、きっと尊敬する音楽家が自分と同じ年にときにどれほどのことを成していたのかを思い、選曲したのだろう。
彼の音楽家としての人生を研究した人間は練習曲を含む作品を「初期ではもっとも重要なもの」と評価している。
また、ショパンは練習曲をただの練習曲としてだけではなく、新しい音楽の探求としての意味も込めていたらしい。
先述したが、彼の住んでいたポーランドは緊張状態にあり、そうした社会的背景が彼の精神にも影響した。
音楽的成熟の傍ら、彼の精神にある種の危機や変化が起こっていたそう。
ほのぴも今までの環境とは別の環境に身を置くことになり、音楽的にも人間的にも成熟していっていると思う。
芸術家にとって壮絶な人生は付きものである。
ほのぴ史にもアイドル歌手としてのデビュー、ヲタクとの出会いは詳しく書かれる重大な変化であると思う。
死ぬまでアイドルは難しいかもしれないが、死ぬまで音楽に関わっていてほしい。
いろいろ調べてみて
あーそういうことなのかなって選曲の理由も納得できた気もする。
勘違いかもしれないけど。
曲の背景等については調べればわかることも多いが、やはりほのぴ本人のピアニストとしての才能や技量的なところに関してはやっぱり何もわからない。
まだまだ頑張らなければ。